今日は愛子岳に登ることにする。
先日石塚山に登った際に見えていた尖った山頂の山だ。 愛子岳という名前は屋久島の伝説に由来するものだと聞いた。 愛子岳の麓を流れる女川と男川にまつわる悲恋の物語があるそうで、そこに登場する女性が名前の由来なのだそうだ。 そういうわけで皇族の愛子様とは直接関係ないわけだが、同じ名前だということで愛子様の誕生からしばらくは記念に登る人が増えたらしい。 ちなみにその愛子の名を冠する焼酎も販売されている。
朝早く宿を出て登山口へ向かう。 空は良く晴れていて愛子岳の尖った山頂がよく見えている。 愛子岳の名前の由来にも出てくる女川を渡った少し先で山の方へ曲がり、畑の間を抜けて森の間を突き進む。 県道から30分程道なりに歩くと愛子岳の登山口に辿り着いた。
山頂までおよそ3時間半、標高で変化する原生林を楽しめると書いてある。 「立ち入りは自己責任」と強く書かれているが、そんな当たり前のことをここまで強調しなければならないのはなんだかなぁといった印象。
登山口までのアプローチには植林帯が広がっていたが、登山口から先は看板にあった通り自然林へと変わっていった。 この山頂まで続く尾根周辺は実は世界遺産と国立公園の登録区域に含まれている。 世界遺産としてはあまり語られないこの山だが、相応の魅力があることに期待したい。
冬なので少々見栄えがしない部分も多いが、それでも原生林の中を歩くのはやはり楽しい。 自由気ままに育った木々を眺めるもよし、足元の小さな苔に目を向けるもよし。
だいぶ長いこと緩やかな登りが続いていたが、標高1000m辺りで唐突に急登へ変わった。 ロープが連続で現れ、手を使いぐいぐいとよじ登っていく。 朝はあんなに天気がよかったのに、少し前からガスに巻かれ小雨が降り始めていた。
急登のおかげで標高が一気に上がり、あっという間に森林限界を抜けて見晴らしの良い岩場に出る。 見晴らしの良い、とは言ってもガスに巻かれているため何が見えるわけでもないのだが。 そのまま登っていくと山頂はすぐだった。
山頂には小さな石の社。 灌木はあるが視界を遮るものはなく、360度のパノラマが広がっている・・・はずだが、残念ながらほとんど何も見えない。 地形を考えれば宮之浦岳方面がかなり良く見えるはずだが、その景色のほとんどが雲で遮られている。
雨は止んでいたので休憩がてら30分近く粘ってみたのだが、一向に晴れる気配がないので諦めて下りることにする。
半分程下りた頃だろうか、今度はまた急に晴れてきて森の隙間から木漏れ日が差すようになる。 登り始めるまで良く晴れていて、山頂は真っ白で、下りてきたらまた晴れて。 なんというタイミングの悪さか。 ままあることではあるが、なんともやりきれない気分になる。 とはいえさすがにここから登り返す元気もないので今回は諦めてそのまま下りることにする。
愛子岳の登山口から山頂往復で4時間半程だった。 もっとかかると思っていたので今日中の宮之浦到着は半ば諦めていたが、このペースならどうやら間に合いそうだ。
県道に戻って宮之浦方面へ進むとやがて遠くに宮之浦港が見えてきた。 港には何か大きな客船のようなものが停まっている。 船旅のツアーでも来ているのだろうか。
宮之浦川まで来たらその手前を海側に入り、オーシャンビューキャンプ場に入る。
キャンプ場はこのオフシーズンではさすがに閑散としていた。 というか一張もテントがなかった。 完全に独り占めだ。 取り合えず少し奥の方の水場に近い辺りへテントを張った。
そのままのんびりしたい所だが、ここは無人のキャンプ場ではあっても無料ではないので手続きをしなければならない。 窓口は2㎞程港の方へ行ったところにある屋久島観光センター。 夕暮れの近付く中、散歩がてら手続きをしに向かった。
その途中、島一周の出発地点である民宿やくしま89を通る。 これで無事島一周が徒歩で繋がった。 ひとまずは目標達成といったところか。
ついでに宿で預かってもらっていたものを一部回収し、不要なものをまた少し預かってもらう。 その足で屋久島観光センターへ向かいキャンプ場の利用手続きを済ませ、またテントまで戻って静かな夜を過ごした。
屋久島に入って今日で29日目。 山岳エリアもぐるりと一周し、島の外周もぐるりと一周した。 もう思う存分屋久島を堪能したし思い残すことはもう何もない。
・・・と言いたいところなのだが、無視できない心残りがあった。
龍神杉だ。
龍神杉は屋久島に来て一番最初に見に行った。 辿り着けなかったわけではないし、楽しめなかったわけでもない。 しかし雨と湿度でレンズがやられて写真をほとんど撮れなかったのだ。 このまま龍神杉の写真を残せず島を出ては後悔するのが目に見えている。
正直もう歩きすぎて体がだいぶ弱っているが、最後の最後にもう一度だけ龍神杉に会いに行くことにした。
前回は屋久島総合自然公園の横から神之川林道に入り、そこから益救参道を通るルートを使った。 このルートは途中で旧宮之浦歩道に合流するが、今回はその旧宮之浦歩道を一番下から歩いてみることにする。
地図を見ながら登山口に繋がる林道を探して入っていく。 さほど長くない林道を突き当りまで進むと旧宮之浦歩道へと繋がっていた。
ほとんど人が通っていないようで、草が生い茂り踏み跡はほとんどわからなかった。 草を掻き分けて進んで行くと尾根の末端に行き当たり、そこをよじ登って尾根の上に乗る。 そこから先は基本的に尾根伝いなので比較的わかりやすかった。
しばらくの間は登山用か林業用かわからないがピンクテープがちらほらと見えていたが、それもやがてぱったりと途絶えた。 この道が使われなくなってもうだいぶ長いのか、もはや踏み跡は無いと言っていい状態だ。 基本は尾根伝いなので迷うような部分はほぼないが、小ピークで方向転換するポイントなどにも道標やテープは一切存在しない。 地形図をきちんと読める人以外は入り込まない方が良いだろう。
登山道沿いには豊かな自然林が広がっていた。 多種多様な樹木が自由気ままに生きている。 植物とは面白いもので、同じ遺伝子を持っていても個々の株でその姿はまるで違うものになる。 実に個性豊かで見ていて面白い。
そんな中に一本の巨大なヒメシャラがあった。 きちんと測ったわけではないが、直径70~80㎝はあるのではないか。 真っ直ぐに空へ突き上げるその姿は圧巻だ。 今まで見事なヒメシャラの大木をいくつか見たことがあるが、ここまでの大木に育つものなのかと改めて驚かされた。
登山口から4時間程歩いた頃、周辺の植生が自然林から杉の植林帯へと変わった。 その杉林の間を進んで行くと木々の隙間に覚えのあるトロッコの軌道跡が見えてきた。 益救参道との合流点だ。 午前中は曇っていた空もいつの間にか晴れて少し暑いぐらいまで気温が上がっていた。
そこから先は前回通ったのと同じ益救参道を辿り、無事に龍神杉との再会を果たす。
2度目にも関わらずまったく色褪せないその魅力。 いつまでも眺めていたくなる見事な立ち姿に感動する。 程よいガスも出て雰囲気ある絵も撮れた。
やはり苦労してでももう一度会いに来て正解だった。
その近くには風神杉と雷神杉。 これら3本を合わせて三神杉と呼ぶ人もいる。 初めて来た時ははどれが風神杉でどれが雷神杉かわからなかったが、その後調べておいたので今回は無事特定することができた。 しかし風神杉は良く撮れたものの、雷神杉の方は周辺を木に囲まれてうまく撮れなかった。 それでも撮ったはずだったのだが、後で確認したら写真が残っていなかった。 失敗作として消してしまったのかもしれない。
周辺には他にも見応えのある木が点在している。 実に素晴らしい森なので皆にも見に行ってもらいたいと思う反面、あまり人が増えて縄文杉周辺みたいになるのは嫌だなとも思う。 もっともここに来る登山道はなかなかにハードなのでそれほど心配する必要はないかもしれないが。
思う存分三神杉の森を堪能し、ようやく心残りに決着がついた。 もっとも島を出てしばらくすれば結局また「ここに行きたい」「あそこに行きたい」と思うのは目に見えている。 しかしその時はその時。 今考えてもキリが無いので今回はこれで区切りとしたい。
車道へ下りて宮之浦川沿いに宮之浦の集落へ戻る。 これで屋久島の山ともお別れだ。
屋久島最後の宿は前回と同じ民宿やくしま89に泊ることにした。 この宿の御主人はもうかなりの年配だが、小さい頃からずっと屋久島で育ち、元気な内は自らあちこち歩き回ったという。
その御主人からは空いた時間に様々な話を聞かせてもらうことができた。 モッチョム岳や愛子岳にまつわる話やお気に入りの場所のこと、小さい頃の屋久島の様子などなど。 御主人が子供の頃にはまだ島の道路は未舗装だったらしく、自転車で島を一周したら何度もパンクして苦労したなどという話も聞かせてくれた。 当時であれば今よりもっと純粋な自然が多く残されていたことだろう。 苦労も多かっただろうが、今よりもっと良いものが見れたに違いない。 そんな時代を生きた人が少々羨ましくも感じる。
翌日、島を出る最後の朝も船の時間ぎりぎりまで御主人と立ち話をする。 しかしやがて時間が迫ってきたので惜しみつつも別れを言って宿を後にした。
ちょうど日の出の頃に港へ着くと今日乗るフェリー「はいびすかす」が入港するところだった。 先にチケットだけ買って乗船開始時間まで少し港周辺を散歩する。 やがて乗船開始の放送が聞こえたので港へ戻りフェリーへ乗り込んだ。
定刻通り出航したフェリーはゆっくりと屋久島から遠ざかっていく。
島を離れるにつれてその山並みの奥からほんのり白くなった山が見えてきた。 宮之浦岳や永田岳だ。 あの後も何度か雪が降ったのだろうか。 登ったのはそれほど前ではないのにもはや懐かしくすら感じる。
進行方向に視線を向けると水平線の上に綺麗な三角形が見えた。 九州本土の開聞岳だ。 海上から見えるとは今日はかなり天気に恵まれている。
屋久島の姿は徐々に薄れて見えなくなり、代わりに九州の本土が近付いてくる。 やがてフェリーは谷山港の船着き場へと入っていった。